Agenda de tous les jours

残すためではなく気づくため。自身の省察のためのブログです。

8ヶ月以上ぶりの備忘録

前回更新した時のタイトルが「臨月に突入」って(笑)。
その後、6月13日に無事に女の子を出産して、かれこれ7か月以上も経っている。
出産についてもいずれ、いつか、、ちゃんと振り返りたいとは思うのだけど…
というわけで、この7ヵ月の内に出産、育児、仕事復帰と、怒涛の毎日を送ってきた。
育児と仕事との両立は、始めは慣れずに大変だったけれど(いかんせん、子どもの保育園への送り迎えが大変!)、今はようやく軌道に乗って来て、タイムマネジメントがうまくいくようになってきた。
そして昨日、今年度の仕事がひと段落した。
先週から今週にかけて、土日も返上しながら200人もの学生の答案を採点し、成績付けが終わった。
あとは来年度のシラバス(授業計画)を作成したら、今年度の非常勤関係の仕事は終了である。
我ながら週2コマ分の授業を用意するのは、子どもがいなかった時と比べると時間に制限がある中で、よくやったと思う。
それも保育園や両親のサポートがあって成し遂げられたことなので感謝しなければいけないな、と思う。
さて、ずいぶんと更新が滞っていたブログを再開しようと思ったのは、来年度のシラバスを作成するにあたって、今年度の省察をしたかったからである。
なので、ここからは省察という名の備忘録。
まず、昨年度もそうだったけれど、本当にいろいろな学生がいて、その要求も様々だということから振り返りたい。
これだけ大衆化した大学教育で、なおかつそこまで無名でもない、言い方は悪いが、難関大学の滑り止めの滑り止めクラスの大学だから、学生から本当に多様な教育要求が出される。
その一つ一つを聞き入れていてはきりがないのだけれど、もちろん聞き入れることで授業の改善につなげなくてはならないものもある。
例えば、「教育に関わるいろんなことを幅広く知れるのはいいけれど、もっと一つ一つのテーマを深く扱って欲しい。」
その一方で、「自分はいろんなことを幅広く知りたいから内容は今のままでいい。」
という、相反する学生の意見がある。
自分の授業方針としては、法学部の学生に一般教養としての「教育学」に出会ってもらうため、内容は原理、制度、政策、歴史、思想、カリキュラムと、かなり多岐に渡って展開してきた。
その分、上記にもあるように、深さに欠ける点は否めない。
さらに、いろいろな学生の事情を考慮して、なるべく一話完結型の授業にするようにしている(前の授業に出ていないとついていけなくなる、ということのないようにしている)。
なので、今までどうやって深さの部分を補ってきたかというと、毎回授業の終わりに提出して帰ってもらう「コメントシート」なるものに、それぞれ疑問やもっと知りたい事、わからなかった事などを書いてもらう。
そしてそれらの中からいくつかピックアップして、次の授業の始めにフィードバックする、ということを行っている(ちなみにそのコメントシートの内容が授業への貢献度として評価の対象になる)。
それはそれで「疑問の解決につながってよかった」などと評価してもらえているやり方だ。
だけど、もう一歩、学生が興味のわく授業へと質の向上を図っていかなければならないと思う。
いかんせん、毎年履修者の人数が多いし、授業計画の段階ではどれほどの学生が受講するかわからないので、いざふたを開けてみないと授業方法については工夫のしようがない、というのがある。
来年度は、学校教育のリアルな現実を学生に知ってもらい、それぞれ考えを深めてもらうために、ゲストスピーカー制度の導入を考えている。
視聴覚資料などを用いて、なるべく一方通行的な講義に陥らないための工夫が必要だとは思うが、グループ学習などは、ゼミならまだしも、大人数の授業ではいかがなものか、とは思う。
そこで次にカリキュラム内容についてはどうか。
昨年度までは、「教育学」という授業で、主に学校教育を扱っていれば何をやってもよい、というものだったので、上記のように非常に多岐にわたった内容を扱っていた。
今年度は、全学的なカリキュラムの改正がなされたということで、「教育学入門」(Introduction
to Education)と「学びの場の教育学」(School Education)という授業を担当させていただくことになった。
それぞれの科目の趣旨は、以下のようだという。
「教育学入門」:教育とは何か、子どもが育つとはどういうことか、そうした問いを念頭におきながら教育という営みについて知ろうというのがこの授業である。子どもたちの育ちを観察し、そして思索してきた先人たちの英知と苦悩に学びながら、自分自身、今現在の「教育とは何か」を考えてみたい。
「学びの場の教育学」:子どもが学び育つプロセス、人が新たな知見と感動を手にするプロセス、そういう営みを集約的に展開させる場として、近代社会は学校を用意した。そこではどのような学びが行
われ、どのような学びを可能にすることができるのか。社会から相対的に独立して組織化された学びの場である学校について考えていこうというのがこの授業である。
前者は歴史や思想を含めた原理的な内容あるいはカリキュラム論が、後者は学習論とか学校論とかが想起される。
したがって、結構大幅に今年度のカリキュラムを練り直さないといけないな、と思う。
最後に、これが一番の悩みの種ではあるのだけれど、成績評価の方法についてである。
最近の大学教育全体に当てはまることであるようだが、出席点のみで単位を出すようなことはしてはならない、となっている。
大学院とかの場合は、授業での発表などが「平常点」といったかたちで評価の対象となり得るが、100人越えの大学の授業では、学生に発表させて単位を出す、というのはなかなか厳しい。
レポートを書かせて単位を出している先生もいるが、二つの授業合わせて200人を超えたりする学生のレポートを短期間で読了して成績を付ける、というのも非現実的かと思われる。
というのも、当該大学は現在、優秀な方からS→A+→A→B+→B→C+→C→F(不合格)と、8段階評価に区分が変更されていて、レポートだと読むことに加え、採点基準を設けること自体が難しい、というのもある。
あと多くの先生たちが嘆いていることではあるが、レポートだとネットで拾ってきたもののコピペが多く、それをいちいちチェックしたり取り締まったりする労力が要され、はっきり言って無駄だということもある。
となれば、大学の制度を利用して試験を行うやり方が(それでも採点は本当に大変な作業だけど)、一番採点基準が設けやすく公平でかつ効率的かと思われる。
また、一定程度の大学教育の質を担保する上でも一番有効かと思われる。
では、何が悩みの種かというと、次の①〜④のようなパターンの学生に対する成績評価である。
① 毎回ちゃんと出席はしているのだけれど、これといって授業に貢献するわけでもなく、テストもできない(部活をやっている学生に多く見られる)。
② 毎回ちゃんと出席し、授業へも貢献してくれてはいるのだけれど、テストでは点が取れない。
③ 授業には1、2回しか出ていないけれど、テストではちゃんと点が取れる。
④ 授業にはほとんど出てこず、テストもできない。
最後の④に関しては、文句なしで落としてしまってよいと思われる。
問題は①〜③のパターンだ。
①に関しては、テストの点数は若干甘めにつけてしまいがちで、正解とまではいかなくとも、部分点などをあげることで、なんとか最低ラインの評価にはなるけれど単位は出す方向である。
②に関しても、授業への貢献度ということで、テストの点数の1〜2割を上乗せしてあげて、なんとか単位を出すようにしている。
だけど、両者ともあまりにもテストの点が悪いと、「本当に授業出てたのか?」とか「授業で何を聞いていたのか?」と疑ってしまい、落とさざるを得ない場合もある。
一方で、③に関しては、正直心証はいいものではないけれど、自分で勉強した跡が見えるので単位をあげるようにしている(そうなると授業は意味をなさないか、おいしいところだけもっていかれている感は否めないが)。
③は授業に出ずとも単位が取れる、ということで効率的なようでいて、実は非効率だと思われるからだ。
結局授業に出て理解をしてしまった方が自分で勉強するよりもはるかに効率的だ。
だけど、先にも書いたように、大衆化した大学においては学力レベルのそれぞれ異なる、それもそこには非常に格差があると思われる学生が一斉に授業を受けている。
さらに今年度は、1年生から4年生までの学生が受講しており、就活など、授業に出られない理由は多様に考えられるので、その辺も考慮しなければならない。
なので、自分に一番適した方法でそれぞれ単位を取ってもらうしかないのだ。
だけど、結局のところ学生は単位を取れるかどうかを一番気にしているので、授業の始めのガイダンス時に上記の事をしっかり伝達する必要があると、改めて思った。
授業内容をちゃんと理解しておらず、単位が取れない学生が多く出るのは、学生自身の怠慢ももちろんあると思うけれど、授業をする側の力不足でもある、ということを常に心に留めておかなければならない。
自分も学生時代に経験したことではあるけれど、単位を出す・出さない、という評価権を握っている教員は、それだけで人の人生に良くも悪くも影響を与えうる存在だ、ということだ。
長くなったけれど、上記のことを改めて認識し直して、来年度のシラバスの作成に挑みたい。
それが終われば、いよいよ自分の研究に集中できる。