Agenda de tous les jours

残すためではなく気づくため。自身の省察のためのブログです。

「無駄」=足りないもの

昨夜は濃いめのコーヒーを飲みすぎたせいで,体はそれなりに疲れていたのに頭がさえてしまって,ほとんど眠れなかった。

1日24時間のうちに終わらせてしまいたいこと,やりたいことが多すぎて,寝る前に次の日に向けてその順序などをイメージし出すと止まらない。

まずは締め切りが直前に迫っているもの,次にこの日までにはここまで出来ていないとまずいというもの,そしてやっと読みたいもの,いつかは読まなければと思っていたもの,というように,頭を整理する。
1日に出来ることは限られているから,少しずつ摘み食いするように,それらを数日かけてこなしていくようにしている。

しかしそう考えていると,いつも何かが足りないことに気づく。

ひとつは,文学作品。
大学院に入って3年目になるけれど,読まなければならない学術書が多すぎて,周りについていくことにも未だに必死で,ゆっくり文学作品を味わう時間をとれていない。授業のない夏休みでさえ,自分の研究を少しでも進めたくて,どうしても読むのは学術書や研究論文になってしまう。
学部の4年生の時に元指導教官のA先生に薦められて読んだ,吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波書店,1982年)は,今でも自分の人生を豊かにしてくれた一冊だと思っている。そして自分も大学の教員になれたら,是非そういう体験を学生と共有したいと思った。
やっぱりどんなに忙しくても,文学作品から得られるインスピレーションや感動は,ただ研究していただけでは得られないものだと気づかされ,つい反省してしまう。

もうひとつは,頭の固い人には絶対理解されない「遊び」というもの。
特に自分のように閉じた世界にいる人間にとっては,意識的に外界と接するようにしないと,どうしても視野が狭くなり,深みのある研究などできるはずがないと思っている。
出来る限りいろんな職種の人間,いろんな世代の人間と接することで,自分がいかに偏狭な考え方をしていたかに気づかされなければならない。
「遊び」とはそういうもので,上述の文学作品と同様に,決して「無駄」なものではないと思う。
忙しくしていると,ついそういった「無駄」は後回しになってしまうけれど,意識的に「足りない」と思って自分に供給してあげることも必要だろう。
また,余計なお世話かもしれないけれど,今の大人は子ども達にそうした時間を与えることができているのだろうか,とふと思ったりもする。