Agenda de tous les jours

残すためではなく気づくため。自身の省察のためのブログです。

知的刺激

なんだか今週はやらなければいけないことがたくさんあって,手帳にそれらを箇条書きにして一つ一つ終わったら線を引いて消していくといった自転車操業的な一週間だったと反省。
その一方で研究会や学会(日本教育学会第70回大会@千葉大学)などにも参加し,多くの知的刺激を得ることもできた。
声をかけていただき参加させていただいた研究会は下記のもの。

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2011年8月23日火曜日(14:00-17:00)
専修大学神田校舎7号館8階784教室
“国家の教育政策と私的価値領域および自由の問題―学校、国家、宗教、そしてセクシュアリティ―広瀬裕子著『イギリスの性教育政策史:自由化の影と国家「介入」』をどう読むか”
報告者:荒井英治郎氏(信州大学
コメンテーター:榎 透氏(専修大学
リプライ:広瀬裕子氏(専修大学
共催:社研グループ研究助成B「公共性をめぐる理論研究」(代表 広瀬裕子氏)
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/

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以前,別の研究会でも検討したことのある文献だったけれど,やっぱりその場に著者がいるのといないのとでは理解の深まり方が全然違うし大変勉強になった。
著者の広瀬先生には,以下の三つの抜刷もいただけて,研究会でもお話になっていた内容が書かれていたので改めて読ませていただいたのもあるけれどいいフィードバックになった。

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・広瀬裕子(2004)「教育政策は価値観に関与しないというテーゼの見直し―自律する『情愛的個人』という視角から」『日本教育学会年報』No.30,pp.33-47.
・同(2011)「教育政策を分析するグランドセオリーの再考―『戦略的』公私二元論」『日本教育政策学会年報』第17号,pp.32-45.
・同(2011)「国家による教育政策と私的価値領域の問題―政策が前提とする人間像の再吟味」『日本教育政策学会年報』第18号,pp.88-99.

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広瀬先生には久しぶりにお会いしたのだけれど,相変わらず(といっていいのか)「凛としている」とか「竹を割ったような」という形容詞がしっくりくる,かわいらしい素敵な女性といったかんじで憧れる(ご本人には恐れ多くて絶対言えないけれど…)。
それはさておき,いくつか考えてみたこと。
一つは,「性教育」という政策案の特質は何かという政策科学的観点からの論点に対し,著者はいわゆる復古的反動的な「サッチャー政権下の政策」の「例外」としてではなく,「国家による私的領域のメンテナンス」としか言いようのないものが見えたとして,サッチャー政権下の一連の政策の中で,最もその原則をよく現出させている政策だったと応答している。
そういう意味では,それがたまたま性教育だったのであって特質はないという。
ということは,「政策案の特質はない」ということがある意味「事例の特殊性」なのであって,当時他に最適な事例はなかったという点においては「事例の一般性」はないということになるのだろうか。
だけど著者は,日本の場合なら歴史教科書をめぐる議論など,「性教育政策があらわしたもの」なら題材になり得るといっているので,「共時的あるいは通時的な事例の一般性」はあるということなのだろうか。
その辺よくわからなかったけれど,少なくとも,先行研究による捉え方とは異なる捉え方が可能になったという意味では,「not A but B研究」(A:先行研究,B:当該研究)(と勝手に読んでいるもの)という研究上の意義付けが与えられるのでないだろうか。
考えたことの二つ目は,「テーマ」と「題材」と「タイトル」について。
著者によれば,書いているテーマは今回の研究会のタイトル「国家の教育政策と私的価値領域および自由の問題」で,題材は「性教育政策」,だけど本のタイトルは『イギリスの性教育政策史―自由化の影と国家「介入」』。
本のタイトルに「政策史」としたのは,主だった動きは1970年代以降だけど,これを読めば前史のところで最低限の情報が書かれているため政策史のオーバーヴューができ本書の内容を包含することができるため,と説明されていた(ところで博士論文のタイトルも本のタイトルと一緒だろうか?聞いておけばよかった…)。
だけど,歴史をやっている人間からすると,これは「政策史」というべきものなのか,という疑問が湧くらしい。
なるほどな,と思いつつ,自分の研究に照らし合わせて考えてみた。
自分の場合,題材は「フランスのシティズンシップ教育政策」,タイトルは一応今のところ「現代フランス社会におけるシティズンシップ教育政策の論理と展開」としている(「現代フランス社会における」というところをもっとそれらしいものにならないかと未だ指導教員と一緒に考え中)。
で,テーマは?言われてぱっと出てこないということは自分の中でも曖昧だったということだろう。
よく,「80年代以降のフランスのシティズンシップ教育政策をテーマに研究してます」なんて自己紹介することがあるけれど,それはテーマじゃなくて題材を言っているにすぎなかった,と改めて気づかされた。
それはそれでいいとして(よくないけれど…),本のタイトルは,上記の研究会のテーマにして副題に題材をおいた方が,(少なくとも自分にとっては)キャッチ―だったのではなかったかと生意気にも思ってみたり思ってみたり。。
タイトルのつけ方は人それぞれだと論文指導でもしばしば聞くけれど,読まれる読まれないの差は大きいのでやっぱり重要,ということを再認識。
三つ目として,今回の研究会の議論で個人的におもしろかったのは,憲法学者中山道子が著書『近代個人主義憲法学』(東大出版会,2000年)の中で明らかにしたように,ロックにおいてさえ「公私二元論」は戦略的なもので,公的領域も私的領域もフィクション。したがって「国家による私的領域のメンテナンス」は目的ではなく手段なのだから,立てるべき問いは「どのような理由で何を目的として公私二元論(公権力の価値領域不介入の原則)が採用されているか」なのだということ。
なるほど,自由や平等といった近代の価値が一応は重要なものだと共有された「成熟近代」においては,「国家による私的領域のメンテナンス」というのが統治の技法になりうるという著者の指摘は鋭い。
だから「なぜそう言えるのか」という正当化の根拠を問われれば,本書を読むと「そうとしか言えない」と答えることになるかと思われるが,著者がこれを有効な政策パターンとして提案しているというよりは,蓋然性をもって登場してきた政策がこのような性格をもっていたということになる。
この「蓋然性をもって登場してきた」というのがポイントで,余計な反論を許さないのでは,と思うところ。
そろそろ長くなりすぎているけれど,四つ目は,上記の「公私二元論」の問題と関わって,著者はフェミニズムが問題にしてきたことを教育行政学に向けて言えた,と自負されていた。
このことは最近自分もひしひしと重要だなぁと思うようになっている。
「教育行政学に向けて言う」ということは,その領域の言語で他領域のこと(じゃなくてもいいけど)を語るということだと思うので,方法論の問題ということになる。
先日,W大のN先生に「学問分野としてはあなたは何学の研究者か」と尋ねられ,「それがあるかないかは別として,教育行政学だと名乗っておきたい」と答えた。
この質問の意図は,広い意味での教育行政,すなわち学校組織や教育支援体制といったものの制度的な枠組の変化とそれを支えるロジックに主たる関心があって,その説明力を高めようと思って歴史学的,社会学的な分析を入れたなら,同じ土俵に持ってくるためにはどうしたらいいのかをもう少し考えた方がいい,ということだった。
その点,広瀬先生の著書は成功しているいってよく,こういうことか,と勉強になった。
このくらいにしておこうと思いつつ,最後五つ目は,政策科学的な観点からの論点となっていた「社会科学が前提とする人間像について」,すなわち制度設計をする際に重要となる自律的な「強い個人」と「弱い個人」のいずれを想定すべきかという論点について。
近年フェミニズムが提唱している「ケアの倫理」などは,政治哲学が前提としてきた自律的な強い個人というものがいかに欺瞞に満ちたものであるかという批判がモチーフとなっており,一定程度の説得性をもっているとは感じる。
だけど,じゃあ「弱い個人」を前提に制度設計すべき,というのもなんだか違う気がする。
例えば,自分の研究に引き付けて言えば,フランスはその独自の共和制原理でもって「法の前ではすべて平等な市民」という普遍主義・平等主義を固持してきた。
しかしその前提が立ち行かなくなっているのが今日のフランスの現状だし,一方でリベラルな国家であってもそのハイブリット性に対しては喫緊の対応を迫られている(たとえばノルウェーオスロでのテロなんて象徴的)。
研究会で著者は,「社会は,強い個人も強くない個人も同時に存在するハイブリットであるということを前提として理論枠組をつくることが必要」として,「平等論」に対する見解を述べていた。
個人的には,「強い個人」と「弱い個人」の二元論を一旦は棄却しつつも,最終的にはカントの当為(ゾレン)と実存(ザイン)じゃないけど,実際がどうあれやっぱり「強い個人」に向かわざをえないのではないかと思ってみたり。。
問題は,国家が「強い個人」という自律に向けて制度を作る際,それがすべての人にとって必要なことなのか,ということなのかもしれない,と考えたりもした。